映画「家族を想うとき」

 ケン・ローチ監督の最新作「家族を想うとき」を1週間ほど前にみてきた。社会派の代表的監督としてケン・ローチはメッセージ性の強い作品を送り出してきた。虐げられたものに光をあてる作品には何らかの救いが見られた気がするのだが、「家族を想うとき」はそれが直接には見あたらない息苦しさが見終わったあとに残った。カタルシスがないといえばいいのか。
 不景気の中で家を失い食を転々とせざるをえず、個人請負の配達業にたどり着いた男と介護ヘルパーをしている妻、二人の子どもが家族だ。個人請負いうのは日本も同じで保険も年金も企業は保証せずすべてが自己責任、稼ぎは働き次第というと聞こえはいいけれどいくら働いても豊かにはなれず生活はゆとりを失っていくばかりなのが現実なのだ。日本ではコンビニのオーナーが最近ではわかりやすい例だろう。映画では稼ぎも時間も余裕がなくなっていく中で子どもがまず犠牲になりさらに夫婦仲にも亀裂が入ってしまう。その先に希望がみえそうもない状況で映画は終わる。救いはないといえばそのとおりだろう。ケン・ローチの現実に対する危機感がそれだけ深いということなのだろうか。家族のつながりだけが救いを感じさせるといえばいえる。ただし原題は「Sorry We Missed You」。
 映画はイギリスのニューカッスルが舞台だった。さて日本の現状はどうなのだろう。ふと思い出したのは1970年頃にあったマル生運動のことだ。国鉄と郵政で行われた生産性向上を名目に労働者を徹底して管理する労務政策がマル生運動だった。職制がストップウォッチを片手に労働者を監視し、トイレに行く時間まで記録し制限する。労働者の牙をぬいて飼い慣らすのが目的だった。その延長上に国鉄の民営化があった。しかしマル生運動は職制という生身の人間が最先頭で労働者に向かい合ったに対して、現代は敵はコンピューターと端末機器の形をとっている。映画の中では、主人公はどこを運転し休憩をどれだけとったか、配達ルートと時間はすべて端末機器で掌握されている。AIが労働をもっと緻密に管理するようになれば働く者の地獄はもっときびしくなるだろう。マル生運動なら職制に反抗することもできたのに、コンピューター相手にどう戦えるのか。19世紀にラッダイトというのがあったなあと思い出す。
 

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